北スラウェシ偉人伝

Dr. サム・ラトゥランギ

Dr. Gerungan Saul Samuel Jacob Ratulangi

1961年11月9日の大統領令により、インドネシア国家独立の英雄に定められました。
空港メインストリート・州内随一の国立大学などにその名を遺し、2万ルピア紙幣の肖像にもなった、北スラウェシきっての偉人です。

2万ルピア紙幣

1890年11月5日トンダノ生まれ。トンダノ、ジャカルタで学んだ後にオランダへ留学し、1915年オランダで数学の教員免許を取得、1919年スイスで科学と数学の博士号を取得した。オランダ時代はインドネシア人学生協会の代表を、スイス時代はアジア人学生協会の代表を務めた。

ヨーロッパから帰国後はジャワ島ジョクジャカルタの高校で教壇に立ち、バンドゥンで保険会社の設立に携わった。

1924~1927年にはマナドに活動の場を移し、ミナハサ協議会の書記官として農地開拓と教育基金設立を指導。この二つは後にオランダによる強制労働の撤廃に繋がった。

1927年、人民評議会のメンバーに推薦され再びジャワ島へ。オランダ人とインドネシア人との間にある政治・経済・教育の不平等撤廃を訴える傍らで、インドネシア学者連盟を設立し、アミン博士と共に月刊誌 Peninjauan を発刊、著書 Indonesia in de Pacifik を発表。

1938~1942年は政治専門誌 Nationale Commemtaren の編集に携わり、日本占領時代はインドネシア共和国独立準備委員会の委員を務めた。

インドネシア独立宣言後はスラウェシ(スラウェシ全島)の初代知事を拝命するも、スラウェシは未だオランダの手中にあり、1946年4月5日オランダに捕縛されパプアに幽閉された。3年後に一旦釈放されるも、再び囚われの身となり、1949年7月30日ジャカルタにてオランダの捕虜として生涯を終えた。

マリア・ワランダ・マラミス

Maria Walanda Maramis

1969年5月20日の大統領令により、インドネシア国家の英雄に定められました。
マナドビトゥントンダノに、ワランダ・マラミス通り(Jl.Walanda Maramis)があります。

マナドにあるマリア・ワランダ・マラミス像

1872年12月1日、マナドの隣の北ミナハサ県アイルマディディ近郊に、三人兄弟の末子として誕生。両親が立て続けに逝去し、6歳で姉兄と共にマウンビで村長を務める叔父に引き取られた。

当時のミナハサ女性は中高等教育から疎外されていたので、小学校を卒業後は聖職者を始めとする知識人らと交流を重ねて見聞を広めた。そのなかで家族内で女性が担う役割の重要性に気づき、「女性に家事を学ぶ機会を与えたい」という夢を持つようになった。

1890年、教師のジョセフ・ワランダと結婚。1917年、夫ジョセフと仲間の支援を得て、初等教育を修了した若い女性に料理・育児・裁縫・手仕事などを教えるPIKAT(Percintaan Ibu Kepada Anak Turunannya/母から子への愛)を設立。PIKATの活動は瞬く間にジャワ島各地にまで広がり、新聞にも取り上げられた。

1918年には念願だったPIKATスクールをマナドに開校。1924年4月20日に天に召されるまでPIKATで精力的な活動を続けるとともに、ミナハサ協議会代表選挙における女性の選挙権の実現にも貢献した。

参考資料
Sam Ratulangi - wikipedia
Maria Walanda Maramis - wikipedia
『Album Pahlawan Bangsa』 PT. Mutiara Sumber Widya

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